Share

第54話 負けた日に、励まされるほうがつらいこともある

last update publish date: 2026-09-26 20:56:03

第54話 負けた日に、励まされるほうがつらいこともある

 陽菜は、梅おにぎりを半分ほど食べたところで手を止めた。

「もう無理?」

「うん。食べたいと思ったんだけど、喉通らない」

「じゃあ残していい」

「捨てるの嫌だな」

「俺が食べる」

「本当に?」

「最初からその予定もあった」

「合理的すぎる」

 陽菜は少しだけ笑ったが、その顔はすぐ元へ戻った。

 笑える。

 でも、笑いたいわけではない。

 多分、今はそういう状態なのだと思う。

 俺は残りのおにぎりを受け取り、袋を閉じた。すぐ食べる気にはならなかったので、自分のバッグへ入れる。

 その間にも、競技場の中から声が聞こえてくる。

 次の種目のアナウンス。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第74話 知らない時間の彼女を、勝手に想像しすぎない

    第74話 知らない時間の彼女を、勝手に想像しすぎない 陸上部の共有SNSに上がった写真を見た時、最初に目へ入ったのは陽菜だった。 合宿先の競技場らしい。夕方のトラック脇で、練習を終えた部員たちが何人かまとまって写っている。全員かなり疲れているようで、座り込んでいる人もいれば、タオルを頭へ乗せたまま笑っている人もいる。 陽菜は中央より少し右。 頬が赤い。髪もかなり乱れている。多分、練習直後だ。 そして、その隣に知らない男がいた。 同じ陸上部なのだから、男子部員が隣にいること自体は何もおかしくない。 分かっている。 問題は、二人ともかなり楽しそうに笑っていたことだった。「……」 俺は写真を拡大した。 その瞬間、自分でも何をしているのかと思った。 別に近すぎるわけでもない。肩が触れているようにも見えないし、二人だけで撮っているわけでもない。十人近くいる集合写真の一部だ。 男が何か言ったのか。 別の誰かが言ったことで全員笑ったのか。 そもそも陽菜が誰を見て笑っているのかも、静止画だけでは分からない。 なのに、頭は余計な部分を補おうとする。 誰だ。 同学年か。 先輩か。 合宿中ずっと一緒なのか。 普段も話すのか。 陽菜はあいつといる時、よく笑うのか。「……またやってるな」 スマートフォンを少し離す。 柔軟剤の時と同じだ。 あの時は、知らない匂いを感じて、その匂いが男のものだと勝手に決めた。 今回は写真。 見えている情報はもっと多い。

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第73話 応援してるから、全部報告してほしいわけじゃない

    第73話 応援してるから、全部報告してほしいわけじゃない 陽菜から「毎日ちゃんと返信しなきゃって思うと、ちょっときついかも」と言われた翌朝、俺はいつものように「おはよう」と送るかどうかで少し迷った。 昨日までなら、起きたら何となく送っていた。陽菜も余裕があれば返してくるし、忙しければ後で返す。それくらいのつもりだった。 でも一度「負担」という言葉を聞いてしまうと、同じことをするだけでも意味が変わって見える。 送ったら返さなければと思わせるかもしれない。送らなければ、昨日の話を気にして急に距離を取ったように見えるかもしれない。 考えているうちに、自分でも嫌になる。 結局、俺は余計な説明をつけずに、『おはよう。今日も怪我だけ気をつけて。返信はいらない』 と打った。 そこでまた止まる。 返信はいらない。 昨日、神崎先輩に言われたことを思い出す。「返信いらない」と言いながら、相手に何かを求めている文章になることがある。 俺は最後の一文を消した。『おはよう。今日も怪我だけ気をつけて』 それだけ送る。 返事がなくても、今日は待つ。 そう決めた。 すると十分ほどして、普通に返信が来た。『おはよう。今朝ごはん。昨日の話、夜ちょっとできる?』『できる』『じゃあ練習終わって余裕あったら電話する』『余裕なかったら明日でいい』 今度は送ってから消さなかった。 陽菜からは、『うん。そういう感じが助かる』 と返ってきた。 その一言で、昨日から胸の奥に残っていた引っかかりが少しだけ小さくなった。 ただ、なくなったわけではない。

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第72話 既読がつかないだけで、悪い想像は勝手に増える

    第72話 既読がつかないだけで、悪い想像は勝手に増える 陽菜に送った朝のメッセージは、昼を過ぎても既読にならなかった。『おはよう。今日も気をつけて』 たったそれだけの文章が、送信済みのまま画面に残っている。合宿二日目で、朝から練習があることは知っていた。スマートフォンをロッカーか宿舎へ置いている可能性も高いし、昨日だって昼間はほとんど返信がなかったのだから、何も不自然ではない。 頭では、そこまで分かっていた。 それでも午後一時を過ぎた頃、俺は図書館で本を読んでいる途中にスマートフォンを開き、既読がついていないことを確認した。 三十分後、もう一度確認した。 午後二時過ぎにも見た。 三度目になると、自分でもさすがに嫌になった。「見たところで変わらないだろ」 小さく呟いてスマートフォンを伏せる。 昨日の夜、陽菜は「今日もかなり練習する」と言っていた。朝から走って、昼食を取って、また午後練習。その間に連絡が来ないのはむしろ予定通りだ。 だから、何も問題はない。 問題はないはずなのに、午後三時を回ると、頭の中に余計な候補が増え始めた。 転んだ。 脚を痛めた。 熱中症。 体調不良。 スマートフォンをなくした。 充電が切れた。 最後の二つならまだいい。 最初の三つは嫌だった。「勝手に悪い順に並べるなよ」 また独り言が出る。 こういう時、人間の頭はかなり性格が悪い。情報が足りないなら何も考えなければいいのに、空白があると勝手に意味を埋めようとする。しかも、楽しい想像より悪い想像のほうが妙に具体的になる。 陽菜が競技場で倒れているところまで想像しかけて、俺は本を閉じた。

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第71話 四泊五日くらい会えなくても平気だと思っていた

    第71話 四泊五日くらい会えなくても平気だと思っていた 陽菜の合宿初日は、朝六時半に届いたメッセージから始まった。『今から集合。眠い』 俺はその時まだベッドの中にいて、通知音で目が覚めた。画面を開くと、続けてもう一件来ている。『でも楽しみ。行ってくるね』 寝ぼけたまま少し考えてから、『行ってらっしゃい。怪我だけ気をつけて』 と返した。 すぐに既読がつく。『そこ最初に言うの悠真っぽい』『頑張って、のほうがよかった?』『今日はそれでいい』 最後に笑っているスタンプが一つ届き、それで朝のやり取りは終わった。 俺はもう一度枕へ顔を戻した。 四泊五日。 長いようで、そこまで長くもない。 以前、一日ほとんど連絡を取らずに過ごす実験もした。その時は昼過ぎから多少気になったものの、普通に図書館へ行き、蒼と会い、夜まで生活は成立した。 だから今回も大丈夫だと思っていた。 五日程度なら、別に。 会えないだけだ。 そう思っていたのは、どうやらかなり甘かったらしい。 午前十一時過ぎ、俺は大学の図書館へ向かっていた。 夏休み中なので構内は普段より静かだ。完全に人がいないわけではないが、講義期間中に比べればかなり少ない。 いつも陽菜と待ち合わせる中庭の横を通った時、俺は無意識にベンチを見た。 誰もいない。 当然だ。 陽菜は今、ここから電車で二時間ほど離れた場所にいる。 それだけ。 なのに、妙な感じがした。 普段なら会う約束がなくても、同じ大学のどこかにいることがある。陸上部の練習ならグラウンドか

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第70話 付き合う前より、今のほうが好きな理由が増えている

    第70話 付き合う前より、今のほうが好きな理由が増えている 雨の日に、昔より今の陽菜のほうが好きだと言った。 あの時は、匂いから昔の記憶が急に戻ってきたせいもあって、かなり素直に口から出た。でも、家に帰ってから考えてみると、あれは思いつきで言ったわけではなかった。 付き合う前より、今のほうが好きな理由が増えている。 次に会ったら、そのことをちゃんと話そうと思っていた。 ところが、いざ会うと、それだけのことを言うタイミングが意外と難しかった。「悠真、そっちの荷物持って」「どれ」「スポーツドリンク入ってる袋。重いやつ」「自分で買ったんだろ」「だから手伝ってほしいの」 夏休み中のフェチ研の活動日。部室へ行く途中、売店で陸上部用の飲み物をまとめ買いした陽菜と会い、そのまま荷物を半分持たされていた。「これ何本ある?」「八本」「一人で持つ量じゃない」「部室の冷蔵庫借りて、あとで陸上部に持ってく」「最初から二回に分ければいいだろ」「それは買ったあと気づいた」「計画性」「今日暑かったから頭回ってなかった」「普段は?」「悠真、喧嘩したい?」 こういうところだ。 昔なら、陽菜に対して「明るい」「陸上部」「汗を気にしている」「声が好きらしい」くらいしか知らなかった。 今は違う。 買い物で少し無茶をする。思いつきで行動して、あとから重いと気づく。負けると機嫌が悪くなる。慰められたくない日がある。一人でいたい日は本当に一人になる。俺が他の女子と話していると少し嫉妬するくせに、自分が嫉妬されるとほんの少し嬉しそうにする。 面倒なところがかなり増えた。

  • 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』   第69話 雨の日の彼女は、少しだけ昔の匂いがする

    第69話 雨の日の彼女は、少しだけ昔の匂いがする 夕立が来る直前の空気には、少し独特な匂いがある。 湿った土と熱を持ったアスファルト、それから遠くで降り始めた雨が風に混ざってくるような匂い。昔から俺はそれが分かったし、普通の人より少し早く雨に気づくこともあった。 その日も、大学近くの本屋を出たところで空気が変わった。 空はまだ明るかったが、西側には濃い雲が広がっている。「これ、降るな」 俺が言うと、隣を歩いていた陽菜が空を見上げた。「天気予報、夕方から雨だったっけ?」「知らない。でも来る」「鼻?」「多分」「便利なのか面倒なのか、たまに分かんなくなるね」「俺も」 夏休みに入ってから、陽菜とは会える日に会う、という形が少しずつ定着していた。今日は午前中に陸上部の練習があり、午後から俺と会っている。いわゆる一日デートではない。本屋を見て、遅い昼飯を食べて、少し歩いて帰る。それくらいだった。 それでも最近は、こういう時間がかなり好きだった。「傘持ってる?」 俺が聞くと、陽菜はバッグの中を確認してから首を横に振った。「ない。悠真は?」「折り畳み」「用意いい」「天気予報見たから」「さっき知らないって言ったじゃん」「雨の時間までは見てない」「紛らわしい」 そんな話をしている間に、風が強くなった。 陽菜のポニーテールが揺れる。「駅まで急ぐ?」「走る?」「今日もう走ったから嫌」「陸上部なのに」「陸上部だから、移動まで走りたくない日もあるの」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status